教員時代から、
「教えたくない教員」
でした。
もちろん、教えますよ。
教えるんですが、いかに教えないように教えるかばっかり考えていた気がします。
教えるって答えを言ってしまうような感覚なんですよね。
「この時はこうです。」
「これはこういうものです。」
学び方とか、学ぶ楽しさを伝えたいなぁと思っていました。
教えるって、教わる側がいて、教える人がいて成立するんですよね。
でも、教える側も教わる側もずっと存在するわけじゃない。
理想は継続的に学んでいくことだと思っているので、
「教育をする」となった時に、
「自分がいなくなった時のこと」を考えるという変な癖が身につきました。
子育ても、一から十まですべてを教えるというよりは、
一から徐々に教えて、子どもが勝手に進めそうなら、
途中で手を離してしまう。
かしこまって、一から十まで教えてるってのがどうも苦手です。
子どもはいつかは巣立つわけで、
いや、巣立ってもらわないと親の方が先に亡くなることの方が多いわけですから、
親がいない未来像を想定すべきだと思うんですよね。
とにかく、何らかの教育に関わる時に、
そもそも一から十まで教えるってのは時間的にできないわけで、
経験の中で自分で学んでさまざまなことを身につけなくてはいけないわけで、
この辺は教えるというよりも、
教わる側に頑張ってもらわないといけないんだよなぁと思ってしまう。
僕が教育を始める時に、
いつごろ、どのように教育を終えるのか、
教育をする際も、教えず、いかに育てるかってのを大事にしている。