墓を開けたり、閉じたり、ラジバンダリ

山下幸二

2023年05月02日 18:42




先日、地域の方の告別式があり、
納骨のためにお墓を「開ける」という儀式?作業?を行ってきました。

親族のご遺体や遺骨に抵抗がある人もいる中で、
他人の墓を開けることに抵抗のある人が多いのは当然なのかなと思っています。

沖縄は「亀甲墓」や「破風墓」のようにちょっとした社のようなお墓が伝統的なお墓です。
なので、墓を開けるという儀式?が必要で、
墓を閉めるという儀式?も必要になります。

「儀式?」というのは「作業」とするにはちょっと違うような気もするし、
「儀式」というほど、僕自身がお経を読み上げたりすることはないからです。
どっちかなぁという感じですが、いくつか手順はあります。
墓を開けたのも2回目なので、まだまだ簡易的なことしか出来ないですし、
足りないこともあったとは思いますが…

とまぁ、
【死】に対して畏怖のようなものを感じるは、
ある意味当然のことで、
また、敬意があるからこそ、お墓に触れないというのもあるのかなぁと思います。


さて、僕はここで、
「墓開けをやってやったぜ、ベイベー!」
という記事を書こうと思ったのではなくて…

『人がやりたがらないことをする呪いがかかってるなぁ…』

という感覚を思い出したので、書いておこうと思いました。


別に、やらなくてもよいことなら、やらないのですが、
【やった方が良いことだけど、あまり人がやらないことを選ぶ癖がある】
と言った感じです。

呪いと書いたのは、
子どもの頃からいろんなところで、
【人がやらないことが素晴らしい】
みたいなことを耳にしてきて、
それが自分の中ですっと入ってきた感覚を表現したものです。

今のボランティアばっかりやってるところもそうな気がします。
基本的に面倒臭いのが嫌いなのでやらなくてよいことはやりたくない人なのです。
ただただ、性格が面倒臭いので、気になったらやりたい人な話です。
気になるということは、
僕は『やった方がいいなぁ…』と思っていても、
誰もやっていないことです。
誰かがやっていれば、
気づかないか、
ありがたいなぁと思うかで、
一緒にやりましょうとならないのが僕の性格です。


何かのイベントの準備や片付けをしている時もそういう傾向があって、
全体的な作業を見て、
人がいない作業をします。
たくさんの人が集まれば、早く終わることもあれば、
逆に必要数以上の人が集まると効率が悪くなることもあるので、
『あ、あっちは必要ないな。』
と思えば、
別の仕事を探して、全体の仕事が早く終わるようにすることが多々あります。
なので、みんなと一緒に作業するというよりは、
個人的にできる作業をしていることの方が多い気がします。
せっかく作業に参加しているのであれば、
手持ち無沙汰になるよりは、
できる仕事を見つけて、全体の仕事量を減らしてさっさと終わらせたい人間なのです。

PTAや自治会の草刈り清掃なんかの場合は、
自分がやるべきところを決めておいて、
それが終わったら、さっさと帰ることもあります。
究極にわがままにやってます(笑)


このブログの読者の方ならご存知だと思いますが、
村道や県道、拝所など清掃も定期的に行っているのも、
僕が『やった方がよい』と思っていて、
実際にできるし、
僕のやった方がよいタイミングで誰もしないので、
勝手にやっているだけです。


別にそういったことに美徳を感じるとか、
他の人に褒めてもらおうって気持ちは特になくて、
(褒めていただける分はありがたく頂戴して、褒められなくてもそっぽは向かない)
単純に気持ちが悪いからする、
誰もしないからする、
といった感じです。


ボランティアに関しては他者の感謝の目を気にしていたら出来ないです。
まぁ、あれやこれやうるさく言われるようだったら、ぽいっと投げ捨ててしまいますが、
個人的には、これはボランティアに限らず、仕事も一緒かもしれない…
ボランティアの方がお金をもらっていないだけ、投げ捨てるのも早かったりはしますが…
文句を言われてまでするボランティアは善意の押し付けなので…


結局、単独行動が好きなんだろうなと思ったり…
超わがままマイペースちゃんなわけです。

ま、「協調性がない!」と言われたことのある男は違うのですよ(笑)


同じ労力を使うのであれば、
みんなと一緒よりも、
みんながやりたがらないことをやる習性があるんだろうなぁと思うのです。

その結果、ボランティアコレクターみたいになってしまったのですが…

もちろん、本当に嫌なことはしないです。
超わがままマイペースちゃんなので(笑)
「人が好まないけど、僕はあんまり気にしないこと」を選びがちということでしょうか。


墓開けの話に戻って、
ありがたいことに霊感もないようですし、
信心深いわけでもないので、
【墓を開け、告別式に来られる弔問客の駐車場係をし、墓を閉じる】
ができちゃうのです。

徳が高いわけじゃなく、抵抗感がないだけの話。
特に先日の告別式の日は、そもそも1日潰れるだろうと想定して動いていたので、
覚悟があれば、それにそってスケジュールを組めばよいだけでした。

ちなみに、
墓を開けて、
買い出しの日だったので買い物に行き、
駐車場係には呼ばれていないけれど、
人はいた方がいいだろうと思って、
行ってみれば、人が足りてなかったので駐車場の誘導係をして、
墓を閉じて、
片付けを終えて、ご遺族に一通り終わった挨拶をして、
お葬式の料理を食べて、ゆんたくして1日を終えました。

喪主になったことはないですが、
いい歳なので、身内の葬式は何度か経験していて、
親の姿を見ていると遺族の大変さを感じていました。
(祖父母の葬式だったので自分も遺族なんだが…)
目の前で親やおじさん・おばさんが大変そうにしているのに、
何も出来ないという無力感はあったわけですが、
遺族でなければ、沖縄ではサポートできることがあるのは良いことだなと思っています。

この慣習がいつまで残るものかは分かりませんが、
僕自身は良いものだと感じているし、
「明日は我が身」
と考えれば、
この慣習が残っていれば、ちょっと安心もできるかなぁと思っています。
(ここの地域で死ぬかどうか分からないが…)

自分がしてもらえるかもしれないから…
というのは実際には現実味はないのですが、
単純に、大切な人が亡くなって、
いろいろ忙しない遺族のサポートと考えれば、
あって良いものなのかなと思っています。

これもまた、
率先してやりたがる人はいないものに手を出してしまいがちの僕の習性なのだと再認識したのでした。

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