国指定重要文化財中村家住宅を基軸として、
琉球・沖縄史を調べれば調べるほど、
謎は謎のまま深まるばかり。
1660年ごろに、土地開墾私有制度がはじまり、【大地主】が誕生する。
中村家の初代は「比嘉親雲上」で1727年に亡くなっていることは記録が存在する。
また、中村家の祖先と言われる「賀氏」は、
中城城跡の最も新しい部分を築城したとされる「護佐丸」の師匠と言われ、
護佐丸・阿麻和利の乱で、護佐丸が自刃してから、詳細不明である。
そもそも「賀氏」自体が得体の知れない人物で、
どこで築城の技術を学んできたのかや、
賀氏の一族がその後にどうなったのかは分からない。
しかし、賀氏のお墓は残っていて、賀氏門中の中村家は拝みをするので、
実在しただろうし、何よりも墓が残って、
500年前から拝み続けられているのであれば、
よほどの人物であったに違いない。
少し話が脱線してしまったが、
中村家が賀氏の血筋だとすれば、
賀氏の足跡が消えて、200年後に「初代 比嘉親雲上」として、
おそらく地方役人として登場するのは十分に考えられる。
なぜならば、地方役人になるには「読み書きそろばん」はとても重要な資質になる。
賀氏の末裔であれば、教養を身につける環境は整っていたに違いない。
200年の空白の期間はあるものの、
資料が残っていないだけで、
「読み書きそろばん」の才能を生かして世渡りをしていたことは考えられる。
賀氏が亡くなっておよそ100年後に薩摩侵攻。
各土地を百姓が地方役人となって代理で治めはじめる地頭代の時代が訪れる。
その50年後に「土地開墾私有制度」が始まる。
それから、およそ70年後に比嘉親雲上は亡くなっている。
どこの国でも同じことが言えるが、
公教育が行き届いていない時代においては、
「読み書きそろばん」は特権といえる。
賀氏が亡くなってからは、
教養を生かしてほそぼそと百姓をやっていたのかも知れない。
もしくは、旧中城村の中城湾は漁場のみならず、
大陸棚が広がっているので、波も穏やかで貿易にも向いている。
ジンブン(知識)があれば、なかなかうまくやれたのかも知れない。
中村家の初代は比嘉親雲上で、
沖縄の家系図からすれば、
賀氏の枝分かれした分家筋と考えるのが通例になるだろう。
比嘉親雲上は長男ではない男子だと推測ができる。
中村家が他の大地主と同様なことをしたかどうかは置いておいて、
真栄田義見は著書「蔡温・伝記と思想」で、
大地主と貧困百姓という経済格差が生まれたと推測している。
この頃からにわかにホワイトカラーとブルーカラーが存在し、
教養のあるホワイトカラーが富を蓄えることになる。
とはいえ、中村家も豪農と言われるほどであり、
明治・大正・昭和の中村家当主である仲村渠榮保の職業は「農家」と記載されているので、
使用者と小作人が完全に分けていたわけでもなさそうである。
仲村渠榮保の長男にあたる10代目当主中村榮俊は、
時代の中で村会議員などもしているが、
基本は農業従事者であったことは、
榮俊の妻の活躍からも想像ができる。
血筋や時代背景を考えると、
比嘉親雲上が時代の中で地方役人として登場するタイミングは悪くない。
当時の最大の武器である「教養」は賀氏から脈々と受け継がれてきたのだろう。
はたして、それだけでどれだけの富を築けるかは定かではないが、
結果として、中村家住宅を今日まで残していることを考えると、
やはり「教養」と「富」を兼ね備えていなければ、かなり難しかったのではないかと思う。
「中村家住宅」自体が異質なのである。
庭の専門家によれば、
石組みと建物の配置、さらに庭の造りも考えれば、
あまりにもバランスが整っていて、
建物に合わせて庭が作られて、庭に合わせて建物が作られているから、
一緒に作ったのではないかというお話ししてもらった。
確かに、家を立てるにはおかしなところに石組みがある。
中村家の伝承では、
琉球王国が成立した500年前に首里で建てられていた「士(サムレー 以下、士族という)」の家を約300年前に、
中城間切大城村(現北中城村大城)に移築したものと言われている。
500年前は琉球王国が成立し、すぐに第一尚氏王統から第二尚氏王統になり、
県外では大名にあたる按司が首里城周辺に集められて一極集中政治が始まる。
この頃、士族という身分ははっきりしてなかったが、
首里に一大都市が築かれることになる。
いわば、平安京のようなものだ。
しかしながら、それから100年後には、
薩摩侵攻や、子どもたちへの遺産相続などで、
貧困士族が生まれはじめる。
さらに200年後には、
士族の中には自分の土地からの収益だけでは生活できなくなり、
手に職をつけて、首里に残るか、
沖縄島北部へと仕事を求めて、首里を離れるものが現れ始めたという。
最終的には、首里に空き家ができてしまい、
中村家三代目当主のまつ仲村渠の頃に首里の空き家を買い取って、
現在の場所に移築したというのが中村家に残る伝承である。
時代背景から考えれば、それほど無理はない。
初代比嘉親雲上が亡くなってから、まつ仲村渠は4年のうちに家督を引き継ぐことになり、
当時、何歳かは分からないが、当主になってから亡くなるまで66年の長い期間がある。
この期間に中村家住宅の移築なのか、首里の士族に家の古材を利用したリフォームなのか、
ともかく、現存する百姓の民家を見ても、他に類を見ない家を建てるという大事業を行っている。
読み書きができたとしても、
よほど時間がなければ日記のような書き物も残さないだろうし、
そもそも、沖縄戦で中村家住宅は米軍の司令部として利用されたこともあり、
中村家住宅に関する資料が一切ないと言っても過言ではないので、
本当に妄想の域を超えない。
少し時代背景を書いておくと、
まつ仲村渠が当主の時代は、1730〜1796年と推測ができる。
それ以前の1691年には首里以外での瓦葺が基本的に禁止されている。
1709年には首里城が三度目の焼失。
首里城再建のために大量の木材が必要になり、
琉球王国では確保できず、
1712年には薩摩藩から調達することになる。
この時期から、琉球王国は深刻な建築資材不足になっていることが想像できる。
1728年に蔡温による民衆支配の制度が徐々に確立されていくことになり、
1730年に第二代目当主の仲村渠親雲上がなくなり、
まつ仲村渠が家督を引き継いだと想定される。
1732年に蔡温による検地が始まり、
敷地・家屋の制限令が発令され、
百姓は、敷地の広さが制限され、
質の高い建築資材を使えなくなる。
これは、薪などを含む材木が沖縄島で枯渇しかけたことが主な原因だと考えて良いだろう。
当時、沖縄島中部の質の良い材木はほぼ刈り取られ、
北部を残すのみになっていたため、
蔡温が林業に力を入れていることを考えれば、
当時、エネルギーといえば、
牛や馬の力を借りるか、
薪を燃やすしかなかっただろうから、
木を育てること、木を守ることは王国にとって死活問題だったはずである。
こういった経緯を知れば知るほど、
中村家住宅は異様性は増すのだ。
仮に中村家住宅構想が初代の頃からあったとするならば、
1737年の琉球王国の敷地・家屋の制限令にはギリギリ間に合ったのかも知れない。
残念ながら、瓦葺きは断念した可能性は、
石垣島の士族の家である宮良殿内が瓦葺きしていたものの、
再三、琉球王国から瓦葺きをやめるように指示されて、
五度目でようやく瓦葺きにしたことからも、
比較的に変えやすい瓦葺きは王国としてもなんとかしたかったのかも知れない。
宮良家は1818年から1875年(明治8年)まで瓦葺きをやめなかった。
1899年(明治32年)には旧慣廃止なったので、
24年後に瓦葺きが復活することになる。
中村家住宅の構造や時代背景を考えると、
「アサギ(琉球王国の役人を接待するゲストハウス)」については、
瓦葺きが許されていたのではないかと考えているが、
そういった記述や伝承がどこにもない。
しかしながら、中村家住宅の屋根瓦の意匠は身分制度をうまく表している。
アサギには化粧瓦が施され、母屋以外は質素な琉球瓦が使われている。
伝承では、元々は茅葺き(もしくは竹葺き、もしくは竹茅葺き)であったとのことだが、
明治30年以降、つまり、琉球王国がなくなった時代に昔ながらの瓦葺きを再現していたのであれば、
教養の高さに驚かされる。
歴史背景を読み解けば、そもそもこの規模の建築物を建てたこと自体があり得ないにもかかわらず、
現在の場所に中村家住宅を建築した時には瓦葺きではなかったはずである。
瓦葺きだとしても、以前は茅葺きだったという伝承があるので、
どこかで瓦は下ろしていることになる。
瓦の意匠と忠実に変えて、復元しているものは意外と少ない。
ここまでは瓦の話だけしてきたが、
中村家住宅に訪れた方はまず石積みに目を奪われるだろうと思う。
前述のように、庭と建物の調和が取れているどころか、
石積みと建物が複雑に交わっていることを考えると、
別々に作ったと考えることは確かに難しそうだ。
そうなると、
建築した時期を確定することは難しいとしても、
中村家住宅は少しずつ作られたわけではなく、
石垣から庭、建物まで一度に作られた可能性は否定できない。
デザイナーズ住宅のような建築物であり、
中城城跡の石組みから200年以上の時を経て、
非常に特殊な石組みを中村家住宅では見ることすらできる。
そうなると施主には建築や石組み、庭の教養があったのではないかとか、
もしくは、この建築に関わった人が当時の技術の粋を詰め込んだのかとか、
そういった妄想を膨らまさずにはいられない。
中村家に関する資料が残っていないことが本当に残念で仕方がない。