ありがたいことに、
「マツ仲村渠とウシ仲村渠は女性ではなく、男性である。」
というご指摘を受けました。
正直な話、誰も見た人がいないですし、
信頼される文献、例えば戸籍などが存在して、
そこに性別が明記されていない限りは、
この議論はどこまでも平行線を辿ることになります。
そもそも歴史考察は推測を重ねるしかなく、
決定的なものというのはなかなか難しいのだろうと思っています。
僕自身、別に歴史学者でも研究者でもないので、
それこそ、お骨をDNA鑑定すれば、
性別がはっきりするのかもしれませんが、
厨子甕に入っているのが本人のお骨だと証明することもまたできないので、
どこまでいってもいたちごっこかなと思います。
その中で、より可能性が高いものを採用することになるのでしょうが、
素人が調べている程度であれば曖昧にするというのも1つだと思って検証しています。
明治時代ごろの常識から考えれば、
女性が当主であることや、家系図において女性が前面に出てくることは、
琉球・沖縄の文化から考えれば、あり得ないことであると言えるとは思います。
ただし、中村家住宅はあり得ないことのオンパレードなので、
僕はマツやウシが女性だった可能性もあると思っています。
同様に、男性だった可能性も持ち続ける必要もあると思っています。
さて、考え方が変わった例を挙げれば、
17世紀ごろから19世紀ごろまで日琉同祖論が全盛を極めていました。
時の権力者である羽地朝秀や、
沖縄学の父でもある伊波普猷は日琉同祖論者として有名です。
沖縄の人は南下してきたという考え方ですが、
近年の血液調査の結果では北上してきたと言われています。
伊波普猷からおよそ100年で常識が覆されることもあるわけです。
かといって、昔から変わらないものもあるでしょうから、
前述のように「正直なところは分からない」に落ち着くように思います。
中村家の伝承では、ちょうど3代目の頃に、
中村家が首里の士(サムレー)の屋敷を買い取って、
現在地に移築したとされています。
その3代目がマツにあたります。
マツが男性だったとして、
首里の士の屋敷を北中城村大城に移築するという大事業を行なったとして、
他の親雲上のように肩書きで位牌に名前が残ってないのは不思議にも感じます。
マツが女性だというのは、
明治以降から今に続く発想や、
そもそも「家譜」という概念からも外れますので、
これもまたあり得ないことになります。
マツが男性だろうと女性だろうと違和感が残る結果になります。
「マツは男子の童名ではないか」
という意見もいただきましたが、
その可能性もまた否定できません。
しかし、マツは先代である仲村渠親雲上が亡くなってから66年後に亡くなります。
最低でも66歳は生きたのではないかと考えると、
男子で元服もせず、童名で位牌に残ることに違和感が生まれます。
ちなみにですが、
4代目とされるウシはマツの亡くなる4年前に亡くなっています。
位牌や家系図でみれば、ウシはマツの子ども(養子も含む)と考えることができますが、
当主となると4代目と言えるかどうかについても再考が必要でしょう。
歴代当主については、
・『重要文化財中村家住宅修理工事報告書』 又吉真三一級建築事務所編 中城栄俊 1979
・『重要文化財中村家住宅主屋・宅地(石垣)修理工事報告書』 文化財建造物保存技術協会編 中城栄俊 1989
を参考にしており、当時の当主であった10代目中村榮俊の記述を元にしています。
なので、ここに異論を挟むのは野暮かと個人的には思っています。
分かることは、
伝承によれば、
3代目マツ仲村渠が男性か女性かは確定できないけれど、
首里の士の屋敷を買い取り、現在の場所に移築したことと、
役職がなかったただのお金持ちの百姓だったのか、
役職はあったけれど、あえて位牌には書かなかったのかということです。
断定するにはあまりにも情報が少ないというのが現状でしょうし、
知識欲はあっても、
仏壇まで調べたり、
墓を暴いたりしてまでしなくても良いと思うのが、
素人ならではの判断です。
とはいえ、少しツタンカーメンなどの謎を解くために墓暴きしたくなる人の気持ちは分かりました(笑)
個人的には分かる範囲で知って、
分からない範囲はロマンにしたいなと思っています。
マツとウシが男性だったとして、
位牌にはなぜ童名(であろう)が書かれたのか。
これを解釈をするのもまたロマンかなと思っています。
※基本的に資料をもとに構成していますが、まだ検証している資料が少なく仮説の段階ですのでご理解ください。
また、違うところがあるなどのご意見などあれば、検証の参考になりますので歓迎いたします。