中村家住宅は本当に不思議がいっぱい。
しかしながら、それを読み解くためには、
それぞれの時代背景を認めないといけない。
伝承で中村家住宅は、
およそ500年前の首里に建てられた士族の家屋を再利用して、
300年前に現在の場所に移築されたとされている。
300年前となると、
当主は「マツ仲村渠」だったのではないかと推測される。
根拠はマツが亡くなった年数で、
マツは三代目当主で、
四代目当主は「ウシ仲村渠」となっているが、
マツよりも早く亡くなっているため、
可能性としては当主になる前に亡くなった可能性も否定できない。
家系図のようなものは残っていなかったということなので、
位牌や納骨に使われた厨子甕(ジーシガーミ)から調査されたような話を耳にした。
さて、家系図、沖縄では「家譜」と呼ぶ方が都合が良いのだけれど、
家譜を琉球王国に納めて、認めたれた一族が士族と認められる。
仲村渠に家譜が現存しないことや、
琉球王国に提出された家譜にも中村家のものは見当たらない。
また家譜のある「士族」の家系の人は、
自分たちが元士族であることに誇りを持っていたり、
話に出てくることが多いことを考えると、
中村家は平民=農民=百姓であったと考えてもよいと思う。
他にも理由になりそうなものもある。
琉球や沖縄における家譜は、父系血縁が重視され、
仮に男子が生まれなかった場合、男兄弟の二男など血縁者の子どもを養子に貰ってまで、
父系血縁にこだわっている様子が伺える。
中村家の当主に関しては、
名前だけで男女を判断することはできないが、
マツとウシで沖縄県では女性につけられがちな名前である。
そのマツとウシがどうどうと当主として名前を残して、
家系に組み込まれているのはとても興味深いことである。
マツとウシが活躍した時代は、
百姓の瓦葺き禁止令や敷地・家屋の制限令が発令された時期と重なる。
だいたんな考察をするのであれば、
制限令が出る前に移築しただろうという考え方だろう。
家譜制度が出来て、およそ50年後に敷地・家屋の制限令ができている。
家譜制度の誕生は、士族と百姓を分離する「士農分離政策」の一環であり、
士族と百姓の地位をはっきりさせようとしたと言っても過言ではないだろう。
薩摩侵攻によって、琉球王国は薩摩藩の付庸国として幕府より認められてから100年前後の話で、
薩摩への年貢を効率化するため蔡温がいくつかの政策を行っているが、
士族に分配する年貢も限られてきたことも想像できる。
実際のところ、この時期に士族でありながら、首里ではなく地方に住む士族も増え始める。
農業をしたものもいるだろうが、農業以外のことをして自分の生計を立てなければなかった士族の動きもある。
泡瀬を開拓した高江洲義正もその1人だと言える。
話は少し脱線したが、
士農の線引きをはっきりさせたかったということを考えると、
農家の中にも士族並みに力を持つものが出てきたのではないだろうか。
そんな時代に活躍してたのがマツとウシである。
この頃、「読み・書き・算盤」ができた百姓はそれなりに資産を蓄えられていたのかもしれない。
士族であっても、踊り奉行や組踊など芸能や文化が発展した時期であり、
百姓にもそういった雰囲気はあったのではないかと想像する。
百姓の憧れは、首里に住まう士族だっただろう。
当然のこと、政治とは崇める対象をつくることが重要であり、
士族もその役割を果たしていたに違いない。
伝承をもとに考えれば、
マツとウシは、先々代の比嘉親雲上(夫地頭か?)、仲村渠親雲上によって蓄えられた財力で、
中村家住宅を移築したのかもしれない。
それも、敷地・家屋の制限令が発令する前に。
年代的には可能性はなくはない。
発令後であっても、少々は期間は許されたかもしれない。
さて、士族ではない百姓にはそもそも家譜が存在しない。
また、仏壇やトートーメー(位牌)の文化もなかっただろう。
なぜなら、百姓のほとんどが読み書き算盤ができなかったと考える方が、
日本の歴史を見ても自然である。
しかしながら、マツとウシは士族の暮らしに憧れ、
士族の家屋を移築するほどのミーハーであり、教養もあったのだろうと思う。
なんらかのきっかけで士族の家に行くこともあったのかもしれないし、
中村家よりも先に家を移築した豪農がいたのかもしれない。
そこで、仏壇と遭遇すると考えるのも別段、可能性として比例されるものでもないだろう。
国立国会図書館のレファレンス共同データーベース(
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000179379)に、
一般の百姓層がトートーメーを管理していたかというと、
先述のように、読み書きができなかった一般百姓には難しかっただろうし、
僧侶にお願いするのも難しかったのではないかと思う。
ある程度、財力のあった百姓、特に地方役人であれば、
可能だったのではないだろうか。
ここで大胆な予測をしてみるトートーメーを始めたのは、
マツとウシではないだろうか。
家屋を移築したときに仏間はあったはずである。
これはなんだと思ったら、どうやらトートーメーを祀るそうだ。
という話になったのではないか。
といっても、士族流のしきたりはしらないので、
それっぽいものをやってみたとするならば、
父系血縁を重んじるなんてのは新しい慣習であり、
見様見真似だったので知らなかったのかもしれない。
あくまでも推測の域を超えないが、
トートーメーに女性らしき名前が載ることはあっても、
当主として名前が残ることは極めて珍しい。
マツとウシは、トートーメーを作る際に、
マツの祖父にあたる初代比嘉親雲上と、
父にあたる仲村渠親雲上を付け足したと考えても違和感はないのではないか。
中村家は、当時の決まりとは尽く違うことをしているので、
そういった可能性が楽しむのもまた1つではないだろうか。
百姓が士族の真似事をするのは良い傾向であり、
しかし、下級士族や土地を持たない貧乏貴族が現れた時代において、
少なからず士族よりも百姓が豪華であってはいけなかったのだろう。
これはどこの国のどこの時代でもそういった制限を持った例はある。
とりあえず、トートーメーを真似てみて、
あとは中村家式にやったんではないだろうかと思う。
あとで違うことに気がついたとしても、
亡くなったものの代わりに、養子を貰ってくるということもなかっただろうし、
家譜を琉球王国に提出する必要はなかったので、
ある意味では、当時の豪農の様子をそのまま残しているとも言えるのではないだろう。
※基本的に資料をもとに構成していますが、まだ検証している資料が少なく仮説の段階ですのでご理解ください。
また、違うところがあるなどのご意見などあれば、検証の参考になりますので歓迎いたします。