【新解釈・中村家住宅】江戸時代から昭和まで「仲村渠榮保」

仲村渠榮保



慶應2年に生まれ、
33歳にして家督を継ぎ、
明治・大正・昭和を生きた【仲村渠榮保】に焦点をあてて、
今日は書いていければ良いと思っています。

琉球処分のはじまりが1872年に琉球王国を琉球藩にしたところから始まり、
1879年の7年間を費やして、沖縄県へとなります。

榮保は7歳と15歳。
父である「仲村渠榮眞」は「仲順親雲上」であることから、
おそらく「夫地頭」の職に就いたことがあると考えられます。

そもそも、平民の最高位である「地頭代 安里親雲上」を二代輩出した時点で、
名家と呼べるでしょうし、それなりの教育を受けていたのではないかと思われます。

中村家において、当時の選挙制度上で、
「多額納税」が参政権に大きく関わってくるのですが、
沖縄県において、多額納税者として名前が公表されて、
「日本紳士録」や「人事興信録」に名前を残してくれて、
僕からすればありがたいくらいに情報がある人と言えます。

父・榮眞の名も人事興信録から知ることになりましたし、
全員ではありませんが、家族構成も知る機会となりました。

「北中城村史 新聞資料編」では、
「仲村渠榮保」の名前が多く出てきます。

当時は中城村と北中城村は一つの村で、
中城村と呼ばれていました。
その村会議員も1918年(大正7年)の新聞では4回も村会議員を務めたとされています。
名家の生まれだったのか、さらなる調査が必要ではありますが、
1924年(大正13)年の新聞記事にも村会議員当選で名前があげれていることからも、
おそらく、途中に落選などなければ、6回は村会議員を行っているのではないかと思われます。

金田一京介があらゆる辞典に名前を貸しているように、
名家であり、高額納税者であった榮保もまた、
中城砂糖会社の発起人に名を連ねたり、
移民会社の海外興業株式会社の沖縄代理店を設立したりと、
農業をしながら、かなり忙しい日々を送っていたのではないかと考えています。

また、沖縄県になってから、しばらく琉球王国の旧慣を維持した旧慣温存政策でしたが、
徐々に緩和され、土地に関する制限が1889(明治22)年に廃止されます。
今まで、制限令によって瓦葺きができなかった家屋、
特に、現在重要文化財になっている家屋はこの頃に瓦葺きになったと言われています。
当時、榮保は22歳、父・榮眞は57歳なので、
榮眞・榮保がこの時期に瓦葺きに関わった可能性が大きいでしょう。
当時は沖縄では大地主が多額納税者に選ばれる傾向があったことからすれば、
榮保が多額納税者として名を連ねるのは、
沖縄県と北海道に国政参政権が与えられる大正7年以降ですから、
この頃は、土地をかなり持っていた可能性は高いと言えます。
また、旧中城村(現中城村、北中城村)はとても大きな敷地面積と石高を誇っていたので、
地頭代や夫地頭の地位なども含めて、
当時はそれなりの財力があった可能性は否定できないと考えています。
でなければ、瓦葺きにもやはり費用がかかるので…


榮保が新聞紙面を彩るのはそれだけではありません。
当時は、学校へ通わせるという意識がまだ幼い時代であり、
学制が日本で取り入れられたのも1972(明治5)年であり、
全国的に就学率も高くなく、
子どもは野山を駆け回って遊んでいたわけではなく、
農作業などに駆り出さされていた時代に、
榮保は就学率を上げるための学事奨励会への寄付も行っています。
そういった功績が認められ「北中城村史」にも学児功労者として紹介されています。


また、別の側面では子宝に恵まれ、
二男十女を授かっています。
当時、子沢山の家が多かった可能性が高いとはいえ、
これだけの子どもを育てるのにも財力以外に余裕も必要だったのではないだろうかと思います。

榮保の弟たちは、移民としてアメリカカルフォルニア州に渡ったり、
末弟の榮行はアメリカへ学術研究に行ったという記述も見かけます。
教育、教養の重要性を中村家が重要視していたことが分かるような気がします。


※基本的に資料をもとに構成していますが、まだ検証している資料が少なく仮説の段階ですのでご理解ください。
 また、違うところがあるなどのご意見などあれば、検証の参考になりますので歓迎いたします。



同じカテゴリー(ガイド)の記事
10月のガイド実績
10月のガイド実績(2023-11-01 17:55)

【ガイド】勉強会
【ガイド】勉強会(2023-09-14 07:03)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。