【新解釈・中村家住宅】屋号「安里」を追いかける理由

【新解釈・中村家住宅】屋号「安里」を追いかける理由


昭和43年〜平成元年ごろの母屋と推測される。
(『重要文化財中村家住宅修理工事報告書』 又吉真三一級建築事務所編 中城栄俊 1979より)

中村家をよく知るために、
屋号「安里」を追いかける理由がいくつかあります。

そもそも気になったのは、
「おきなわ文化財図鑑」という本に、
中城間切の地頭代(ジトゥデー)は「安里」名乗る

といった記載を見つけたのがはじめです。
本当のところは、その他の本で見かけたような気がするのですが、
その後、文献として見つけたのはこの本でした。

国立公文書館に所蔵されている「沖縄県各間切各島地頭代以下役俸石代ヲ以支給」という史料を見ると、
中城間切の地頭代は「安里親雲上」となっています。
しかし、この文献は明治13年7月17日付けのものなので、
中村家とは別物だと考えられます。

明治13年にはまだ地頭代が存在していたことが分かります。
もしかすると、中村家の人かも知れませんが、
明治時代は仲村渠榮眞さんの時代で、仲順親雲上は「夫地頭」にあたるので、
おそらく、中村家ではない人がやっていたのだろうと考えています。

また、中村家の屋号が「大城安里」と呼ばれます。
大城の屋号「安里」です。


こういった時代背景を考えて、
「安里」を屋号に持つ敷地に住んでいるのは、
中城間切の地頭代の職についていたのではないかと考えています。

中城間切の地頭代を【安里親雲上】と呼んでいたのか、
それとも、安里を名乗ることを命じられていたのかは分かりませんが、
どちらにせよ、本名とは別に役職名として【安里親雲上】は、
「中城間切の地頭代」を指すとしても問題ないと考えています。

農家において地頭代は最高職ですから、
とても名誉なことだったと考えています。
そもそも別の屋号だったとしても、
【安里親雲上】に任命されれば、
屋号を「安里」に変えることもあったのではないだろうかというのが僕の推測です。

逆に屋号「安里」を持つものが【安里親雲上】に選ばれる可能性があったという考え方もできそうですが、
年貢に関わる仕事だったことや、
中村家の初代が「比嘉親雲上」であり、
地頭代にはその後についていることから、
除外することにしましたが、頭の隅には置いておく予定です。


もちろん、地頭代を勤めた家系は親がそれなりに教養があるはずですから、
当時の教育という側面からも、
親に教養があることが第一条件となると考えています。


「沖縄県旧慣地方制度 第三項 57頁」には、
地頭外以下の任期及び定員 給与がまとめられています。
地頭代の任期は5年などといった記載があるので、
「旧慣」と書かれているということは明治時代の資料のはずですので、
当時は5年で任期を迎えたということになりますから、
一度なったら本人が死ぬか辞めるまでということでもないように思います。

また、中城間切は古くからある間切ですから、
そもそも、5代目と7代目だけが【安里親雲上】であることはあり得ないでしょうから、
中村家以外にも地頭代を担っていた家系や人がいたと考えるのは当然のことでしょう。


しかし、中村家しか「地頭代 安里親雲上」をやっていたという話を聞かない。
(まだまだ十分調べられていないのですが…)
その取っ掛かりとして、屋号「安里」を追いかけてみることにしています。



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