中村家の名字である「中村」は、
戦後に「仲村渠(なかんだかり)」から改名されている。
1669年(寛文8年)の11月8日付で、
「中城と申す名、字、衆中、百姓、下々までも御法度に候間、別目に替申候可被渡候(別名にかえるべし)」
との布令が発布されて「中」が制限されたことが、
北中城村史に記されている。
中城間切はよしとして、
中城城跡周辺の集落は中城から伊舎堂と呼ばれるようになったり、
【中】という文字の使用が制限された。
さて、中村家の家系図だが、残念ながら残っていないと言うことである。
ただし、中村家の門柱墓がのこっていたこともあり、
初代からの当主だけは確認することができる。
「重要文化財中村家住宅・宅地(石垣)修理工事報告書」から、
当主の情報をまとめてみたいと思う。
【初代 比嘉親雲上 1727年没】 親雲上=ぺーちん
名前を残す際に、実名よりも役職が優先されたようだ。
なので、家系図では「比嘉親雲上」と書かれているのは、
中城間切を行政的に管理する役職にあった可能性が高い。
今のところ、
「比嘉」というムラ(集落)に関わる「親雲上=地方役人」という解釈で話を進める。
残念ながら、初代が亡くなった年齢は明らかではないため、
いつ頃生まれて、いつ頃親雲上として活躍したかは分からない。
ちなみに、中村家の先祖は中城城の主として有名な護佐丸の築城等の師匠と呼ばれている「賀氏」であり、
賀氏が歴史上からその名前が消えるのが、
護佐丸・阿麻和利の乱が起こった1458年である。
ここでは、賀氏や護佐丸、阿麻和利の話は省略するが、
賀氏の子孫の一部が中城間切に残り、
およそ200年ほど空白の時間があって、
初代比嘉親雲上が現れることになる。
【2代目 仲村渠親雲上 1730年没】
家系図を追う中で、初代はどのようにして「親雲上」になったかも謎ではあるが、
2代目について「仲村渠親雲上」という名称がそもそも謎になる。
「親雲上」の前に、ムラに字名が使われていれば、
その村の地方役人をしていたと推測できるが、
中城間切には「仲村渠」という地名は存在しない。
また、初代当主が亡くなったのが1727年であり、2代目は1730年である。
2代目が当主をしたのはたった3年間ということになる。
先の当主が亡くなった事例としては、
8代目当主である「仲順親雲上」である「仲村渠榮眞」がなくなった時に、
9代目当主「仲村渠榮保」が当主になったとのことなので、
2代目はおよそ3年間しか当主ではなかった可能性が濃厚であると考える。
比嘉親雲上も、仲村渠親雲上も本名は現段階では調査中である。
【3代目 まつ仲村渠 1796年没】
まつ仲村渠が男性なのか女性なのか正直なところ定かではない。
ただ、名前を見る限りでは、女性ではないかなと感じる。
ただし、沖縄県では男系を重んじることが多いために、
女性が当主になる得るのか難しいところである。
仮に女性だとすると、18世紀に女性当主が存在したことになるが、
他の間切や家系に女性の当主が存在したのか調査が必要である。
沖縄の風習からいえば、仏壇は長男が受け継ぐものであり、
女性が受け継ぐことはほぼあり得ない。
男子が生まれない場合は男の子を養子にもらうなどして、
家名や仏壇を残したりすることが一般的なように思う。
ただ、およそ200年前の話になるので、
考え方が違うのかも知れない。
また、名前だけで判断するのは難しいとも言える。
ほぼ女性と確定しても良いと思うが、
男性であろうが女性であろうが、
この代はなんの役職も持っていなかったことになるだろう。
【4代目 うし仲村渠 没1792年】
4代目は3代目のまつ仲村渠よりも早くに亡くなる。
おそらく、3代目の子どもだったから4代目にあたるのだろうと思う。
しかしながら、うしもまた沖縄では女性の名前とするのが一般的である。
3代目・4代目は女性であった可能性が高いと思われる。
少し歴代当主の話から脱線するが、
直近の証言では、
3代目の頃に、
「中村家住宅は首里より移築した。」とか、
「中村家住宅が建てられた。」と言われている。
伝承を信じるのであれば、
2代目が亡くなった1730年から3代目の亡くなる1796年に中村家住宅が建築されたことになる。
1691年に農民(=平民)の瓦葺きが禁止されるため、
おそらく、中村家住宅が建てられた頃は、茅葺きだった可能性は高い。
1737年には琉球王国の三司官であり、
明治まで影響力を持ち続ける蔡温によって、
「敷地・家屋の制限令」が発令される。
この制限令によれば、
農民は3間×4間のおよそ12畳の広さの母屋と、
3間×2間の6坪の台所しか許されない。
また、チャーギ(イヌマキ)やモッコクなど建築に合った材料の使用も許されていない。
対して、中村家住宅は、
一番座とその裏座だけでも12畳を超える上に、
二番座、三番座、板の間があり、
アサギまでもある。
シム(台所)も6坪以上であり、
一般的な住宅が母屋と台所が別棟であるのに対して、
同じ棟でつながっているのも珍しいと言える。
また建材において、
台所にモッコクが使われている以外はチャーギが利用されていることも異質である。
伝承は少しあやふやな部分があり、
初代が中村家住宅を建てたという話もある。
ただし、それが今の土地に家を建てて住み始めたという話か、
現在のような形の中村家住宅を建てたのかは分からない。
ここでも「首里から現在の場所(北中城村大城)へ移築した」という伝承を信じるのであれば、
当時、重いものを運ぶとなれば、牛や馬に引かせる方法が想像できるとして、
お金も時間も相当費やしたのではないだろうかと思う。
薩摩が侵攻したのは1609年、江戸時代が始まってすぐのことである。
それからおよそ100年とちょっとでまつ仲村渠とうし仲村渠は、
中村家住宅をなんらかの形で建てたというのが伝承だ。
古くから中村家住宅のガイドをしている比嘉榮吉さん曰く、
薩摩侵攻によって、仕事を失った士族の空き家が生まれた時期であり、
その空き家を移築したことが考えられるとのことだ。
今ほど、昔のルールが厳密ではなかったとして、
1737年の「敷地・家屋の制限令」頃までに、
なんとか中村家住宅を移築するなり、
今の間取りで建てるなりすれば滑り込みセーフだったのかも知れない。
そう考えれば、3代目の頃に建てられたという伝承もあながち間違いではないだろう。
それにしても農民はそれほど裕福だったのだろうか。
初代が比嘉親雲上を名乗れるように、
当時の中村家はそれなりの豪農だった可能性は高い。
また、瓦葺きの禁止令や敷地・家屋の制限令が出るということは、
そういった農民が出てきた証でもあるだろう。
「士農分離政策」のために、農民にある程度の制限を行った可能性は十分に考えられる。
また、薩摩侵攻以降の沖縄県は芸術・文化の発展する時期でもあり、
娼婦である吉谷チルーや、存在しなかったとも言われているが農民だった恩納ナビーといった平民が、
琉歌の世界で有名になったり、
玉城朝薫や平敷屋朝敏など文学も大きく発展を遂げる。
三線が芸能として広まり始めるのもまたこの頃とも言える。
芸術や文化が発展する場合、特に農民が関与する場合は、
それなりに生活に余力があった可能性が高い。
生活に余力がなければ、芸術や文化は生み出されない。
平民である吉谷チルーや恩納ナビーが文化に関わっているとすれば、
ある程度、余裕のある時代だったのかも知れない。
とはいえ、それに対して、薩摩藩の租税が厳しかったという話もあるので、
はっきりしたことは言えない。
ただ、仮に現在の状態で中村家住宅を建築したとすれば、
「敷地・家屋の制限令」が発令される頃までがタイムリミットだったであろうと思う。
この根拠とするのは、
士族の家である石垣島の宮良殿内は、
1819年に建造されており、
農民に禁止されたチャーギや瓦葺きのつくりになっている。
しかしながら、琉球王国から5回もの建て替えが命じられたが従わなかったものの、
1875年には瓦葺きだけをやめて、茅葺きに変えている。
中村家も農家にはあり得ない建築様式だが、
屋根だけは茅葺や竹葺、もしくは茅竹葺だったことを考えると、
つくってしまった家については、少しおおらかだったのかも知れない。
石垣島には頻繁に行けない時代だったので、
十分に家を建てる時間があったのだろう。
対して、中村家住宅は、目と鼻の先ほどとは言わないが、
石垣島に比べれば、首里からそれほど遠くないため、
制限令が出るまでに急いで建てたと考えるのもまた面白いように思う。
【5代目 地頭代 安里親雲上 1854年没 享年82歳】
5代目より没年齢も記載されている。
82歳とはなかなかの長寿である。
しっかりと役職が記載され、農家(=平民)の最高位となる地頭代と記載されるのは5代目が初めてとなる。
地方役人の役職は地頭代以外にもいろいろあるので、
下級職から徐々に地頭代に出世したのではないかと推測され、最高位の役職を位牌に残したものと考えられる。
残念ながら、本名は分からない。
いまだ、推測の域を超えないが、
シマ(字=集落)によっては「安里」という屋号が残っており、
敷地面積もそれなりに広い。
明治時代の史料からも、
地頭代は「安里」を名乗るのか、
そもそも【安里親雲上】自体が役職名ではないかと考えている。
中城間切の地頭代は【安里親雲上】と呼ばれるのではないだろうかというのが僕なりの解釈であり、
「安里」という屋号は【安里親雲上】を担った家主が屋号を「安里」に変えたのではないかと思う。
中城間切はもっとも石高の高い間切であり、
【安里親雲上】は農民の最高位であるから、
屋号として残すことはあったのではないかと思う。
中村家も屋号は「安里」であり「大城安里」と呼ばれる。
しかしながら、中村家が安里親雲上を担っていない時に、
誰が安里親雲上だったのかという資料が現段階で見つけ切れていない。
【安里親雲上】は農家にとっては名誉だったはずなので、
伝承されていそうなのに、そういった噂を聞かない。
今後は、中城間切以外の間切の情報を精査する必要があると考えている。
【6代目 屋宜掟仲村渠◇屋 1834年没 享年39歳】
「掟(うっち、うっちん)」は地方役人の役職の一つで、
屋宜というシマの役人をしていた可能性が高い。
4代目同様に、先代よりも先に亡くなっていることや、
39歳で亡くなっていることから、
地頭代まで昇進できなかったと推測しても良いだろう。
【7代目 地頭代 安里親雲上 1863年没 享年54歳】
地頭代に返り咲いているというよりも、
中村家においては世代は超えたが、
6代目が5代目よりも早く亡くなっていることを考えれば、
世代は空いたものの2代連続の地頭代とも言えるのではないだろうか。
ただし、明治時代の資料によれば、地頭代の任期は5年(内規3年)となっているので、
素直にそのまま地頭代が引き継がれたのか、
それとも、別のシマに地頭代が出現して、間隔をあけて地頭代になったのかは分からない。
この辺りも今後調査が必要になる部分である。
【8代目 仲順親雲上(仲村渠榮眞) 1898年没 享年66歳】
1898年は明治31年にあたるので、
中村家の当主として琉球王国最後の当主は8代目の仲村渠榮眞となる。
琉球王国が続いたのであれば、地頭代まで上り詰めたかも知れないが、
おそらく【仲順親雲上】は琉球王国が琉球藩になったことも関係しているのかも知れない。
「親雲上」と書かれている以上、地方役人としてなんらかの役職についていたと思われる。
【9代目 仲村渠榮保 1945年没 享年80歳】
【10代目 仲村渠榮俊】
9代目、10代目についてはある程度資料があるので、
別の機会に詳しく説明できればと思う。