【中村家住宅読本】屋敷シーサー
ガイドをしていると、
「シーサーって雄雌の一対じゃないんですか?」
と質問されることがある。
確かに狛犬のように一対のシーサーが、
門のところに鎮座してるイメージがある。
シーサーの発祥は実はハッキリしていなくて、
一対とか雄雌とか阿吽とか、
詳しく書かれているものは少ない。
とりあえず、
首里城には、
しっくいシーサーや陶器のシーサーは目につかない。
もちろん、屋根にシーサーが乗っていることもない。
首里城にあるものは【石獅子】と呼ばれるもので、
歓会門に一対の石獅子があるが、
それ以外は対にはなっていないし、
雄雌も特にないそうなので、
雌雄一対という厳格なルールはないんだろうと思っている。
首里城や集落には、
【石獅子】と呼ばれるものがある。
宜野湾市喜友名の石獅子群は有名なので、
時間があったら歩いてもらいたい。
シーサーではなく、
琉球石灰岩で掘り出された石獅子は、
かなり昔からあるようだし、
沖縄で一番古いだろう信仰である【ヒヌカン】は、
獅子の形はしていないにしろ巨岩であったりする。
シーサーやヒヌカンは、
明治になり、
身分制度が緩和される頃に屋敷に持ち込まれた可能性が高いのではないかと思っている。
ヒヌカンに関してはもっと古くから、
家庭で起こったことを天の神様に伝えていたかもしれない。
シーサーに関しては、
明治22年まで、
首里・那覇以外の瓦葺きが禁止されていて、
禁止令が解除されると赤瓦葺きの住宅が増える。
しかし、戦前の写真を見ても、
なかなかしっくいシーサーが見つからない。
しっくいシーサーの由来として、
瓦葺きで余った瓦としっくいで、
ムチゼーク(瓦漆喰職人)がその技術を魅せるものだったとか。
ある意味、広告塔の意味もあったとか。
しっくいシーサーが広まったのは、
この明治時代以降というのが、
現在、主流の考え方のようで、
陶器のシーサーが普及したのもこの頃だと言われている。
基本的にこの考えで良いのだと思うのだけれど、
琉球では火葬や土葬の文化ではなく、
風葬後に洗骨を行い、
厨子甕(ずしがめ:ジーシーガーミー)に骨を納めていた。
その厨子甕が当時の様子を語ってくれるのだけど、
琉球王国時代、明治になる以前の厨子甕には、
家の形をしているものがあって、
その屋根の上には、
一対のシーサーらしきものが鎮座している。
これがシーサーなのか、
石獅子なのか、
屋根の上には乗っていなかったけれど、
冥土のお供に乗せられたものなのか、
判断が難しい。
明治以降にしっくいシーサーや陶器のシーサーが広まったという主流の考え方も怪しくなってしまう。
とはいえ、一部そのような例があったからといって、
全部がそうだっと言い切ることもできない。
雌雄はともかく一対という考え方は昔からあったのかもしれない。
ただし、加工しやすかったとはいえ、
琉球石灰岩を削るのは容易な作業ではないので、
一対となるとなかなか難しかっただろうし、
そもそも瓦葺きにできた家は限られていたので、
明治以降に多くの人が、
集落や城、寺などにあった石獅子を、
屋敷に招き入れたと考えらのが、
現状で一番しっくり来るのかなと思っている。
シーサー1つでも奥が深い。
※Instagramに投稿したものを再掲しています。
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